青春シンコペーション


第4章 コンクールに姫乱入?(4)


コンクールは、前半8人の演奏が終わり、昼の休憩に入っていた。
「あ、美樹さん」
人混みの中からようやく彼女を見つけた井倉が駆け付けて来た。あとから両親もやって来る。
「いやあ、あなたが眉村美樹さんですか? はじめまして。挨拶が遅れましたが、息子が大変お世話になりまして……」
井倉の父が頭を下げる。
「いいえ、お世話だなんてとんでもない。うちではとても助かっているんです。いろいろ家の手伝いをしてもらって、恐縮しているのはわたし達の方なんですよ」
美樹が言った。

「ところで、バウアー先生は、ご一緒じゃなかったんですか?」
隣にいた母親も挨拶しようと周囲を見渡す。
「それが、ちょっと急用ができまして……発表の時間には戻って来るからと……」
美樹が言い訳する。
「そうですか。ぜひ、お昼をご一緒にと思いましたのに……」
二人はさも残念そうに言った。

「えーっ。ハンス先生いないの? がっかり。彼ってすっごい美形なんだよ。優介のピアノの先生だなんて信じられないくらい可愛い顔してんの。また会えると思って楽しみにしてたのに……」
「何だよ、それ。おれのことはどうでもいい訳?」
井倉が苦笑しながら言った。
「だって、お兄ちゃんの顔見たって食欲すすまないもん」
「ちぇっ。よく言うよ」
その間にもロビーにはどんどん人が溢れて来た。彼らは少し端に寄った。

「発表の時に戻られるなら、挨拶はその時にすればいいだろう」
父親が腕時計を見ながら言った。
「それなら、せめて美樹さんだけでも一緒にどうですか?」
母親が誘う。それを軽く手で制して井倉が訊いた。
「それより黒木先生はどこですか?」
「それが……藤倉さんと向こうでお話されているの。わたしも伝えたいことがあって、さっきからずっとお待ちしているのだけれど……」
美樹が困ったような顔をした。

「藤倉さんって、あの音楽評論家の? それなら、僕達も待ちましょうか?」
「ええ。でも……」
井倉の言葉に彼女は首を横に振った。
「いいわ。あなたはご両親と先に食事をして来てちょうだい。あとでまた合流しましょう」
「わかりました」
美樹に言われ、彼らはその場を離れた。


それから10分後、美樹はようやく黒木を捕まえ、ハンスとフリードリッヒの件を報告した。
「何ですって?」
黒木が仰天して叫んだ。その声に通り掛かった何人かが振り向く。教授はこほんと一つ咳払いをすると、押し殺したような声で言った。
「何て馬鹿なことを……!」
「本当に申し訳ありません。ハンスってば、一度言い出すと聞かないところがあって……」
「いえ、ハンス先生の責任ではありません。悪いのはすべてあの理事長です」

黒木は立腹していた。神聖な場であるコンクールにプロのピアニストを出して対決させるなど前代未聞だ。ハンスもフリードリッヒも芸術家だから意見がぶつかり合うことはあるだろう。しかし、それを止めるのが理事長の役目ではないか。もめ事を解決するどころか、自ら加担して賭けをさせるなどとは、とんでもない失態だと彼は思った。
「私が直談判して来ます」
黒木は憤慨して理事長のところに向かった。


当の理事長は会場の事務室にいた。審査員達とホールの責任者のところに足を運び、たった今同意を取って来たところだった。もちろん、演奏するのがあのフリードリッヒとハンスの二人であることは明かさず、ただ事務側の不手際で17番と18番の資料が抜けていたのだとだけ告げた。
それによって30分ほど予定が繰り下がることになり、そのことで不平を言う者もなくはなかった。が、そこは大御所である薬島音大の権限を翳し、あとは金をばら撒いて黙らせたのである。

「ふっ。いったいどんな演奏を聴かせてくれるか楽しみだな」
理事長は自らの思惑通りにことが運んで行くので満足の笑みを浮かべた。
そこへいきなり黒木が怒鳴り込んで来たのである。

「理事長! いったい、あなたは何を考えているんですか?」
「何がです?」
わざとらしく書類の束を揃えて理事長が振り向く。
「フリードリッヒ・バウメンとハンス・ディック・バウアーのことですよ」
「ああ、あなたはあのバウアーの関係者でしたね。その件は極秘なんですよ。大声を出さないでください。話があるなら別室へ」
理事長は控室の一つに黒木を案内した。

「あの二人をコンクールで対決させようと企てるなど、あまりにも姑息ではありませんか?」
「人聞きが悪いですね。この件は当人達の発案なのですよ。私は単に同意しただけだ」
理事長は、神経質そうに左の眉を痙攣させて言った。
「あなたはコンクールというものの本質を理解していない。わかりますか? 音楽大学の理事長という立場にありながら、あなたは、音楽を冒涜したのですよ」
黒木がまくし立てる。

「冒涜? 冒涜しているのはあなたの方でしょう。黒木さん」
薄く笑って理事長が問い返す。
「何ですって?」
黒木は眉間に皺を寄せて叫んだ。一方、理事長は静かな足取りでテーブルを巡ると、彼の正面に立って続けた。

「コンクールとは若い音楽家達が研鑽を積み、その技量を競い合うものだ。その評価は揺らぎない。だからこそ、若手の音楽家達はコンクールを目指す。そこで高評価を得れば、そのままデビューに直結する。世間からの認知度も上がり、注目を浴びる。だからこそコンクールは重要だ。演奏者の技量を測る指標になるのだからね。しかし、そのコンクールに一度も出場したことのない自称ピアニストを教授として招き、前途ある学生達にレッスンまがいのことをさせたあなたの責任は免れないでしょうな」

「ハンス先生のことを言っておられるのですか? ならば、ご心配なく。たとえコンクールに出ていなくとも、ハンス先生の実力はあのフリードリッヒ・バウメンに劣るものではありません」
黒木が断言する。
「ほう。大した自信だ。それでもし、そのハンス何とか先生の成績が振るわず、万が一学生に劣るような結果になったらどうするつもりです?」
「はは。そんなことは有り得ませんね」
黒木が豪快に笑い飛ばす。
「まあいい。とにかく、これですべてがはっきりするでしょう。真に実力があるのは誰かということがね」
「そうですな」
ぎらつく蛍光灯の下で、黒木も毒を含んで頷いた。

「今日はあなたが言うところの天才ピアニストの化けの皮が剥がれるところが見られるかと思ったら、珍しく私もわくわくして来ましたよ。学生はともかく、あのショパンコンクールで優勝したフリードリッヒ・バウメンが相手では、あまりに分が悪くてお気の毒ですね」
そう言うと理事長は愉快そうに高笑いした。
「何とでも言うがいい。恥をかくのはどちらなのか。私も楽しみですよ、理事長」
そう言うと、黒木はぴしゃりとドアを閉めて出て行った。

「ふん。くそったれの青二才がっ! 何も知らずに墓穴を掘るとは哀れな奴だ」
黒木はそう吐き捨ててホールに向かった。
止めることができないのならやることは一つ。二人の対決を聴き逃す手はない。これは貴重なチャンスだ。コンクール用としてのハンスの演奏。これまで誰も聴いたことのない新鮮な感動を与えてくれるだろう。黒木は高鳴る胸を抑え切れず、子どものように駆け出していた。


そして間もなく、コンクールにエントリーしていた16名の演奏が終了した。会場からはぞろぞろと人が出て来た。その中に評論家の藤倉もいた。
「今年のコンクールもまた薬島関係の総なめってとこか」
彼はチェックを入れたプログラムをちらっと見ると無造作に丸めて鞄に入れた。
ホールの模様が中継されていた部屋からも記者達が出て来る。モニターには誰もいない舞台が映し出されていた。
「やっぱり今年も彩香嬢に気まりかね」
「そりゃそうさ。彼女に叶う弾き手なんていないさ」
「何しろ目立ってたもんな、彼女」
人々はもう結果についてあれこれ予想を立て始めている。
「確かに5番の彼女はいつもながら素晴らしかったがね、私なら……」
藤倉は彼らの見解とは違う思いを口にした。と、そこへ突然のアナウンスが入った。

「これからナンバー17番の演奏を行います」
それはモニターのスピーカーから聞こえた。
「何?」
藤倉は一瞬聞き違えたのではないかと思い、耳を欹てた。
「おい、17番だって? 今回の出場者は16人だったんじゃないのか?」
近くの者を捕まえて訊く。
「ええ。その筈です」
「プログラムには16番までしかありませんし」
しかし、その17番の演奏者が舞台の袖から姿を現した。
「おお! 何て美しい……」
ざわめきが広がった。慌ててもにたー室へ戻る者もいた。それを見ると、藤倉は慌てて引き返し、ホールの中へ入ろうとした。
「恐れ入りますが、演奏中にはホール内への出入りはできません」
「私は仕事で来たんだ。入れてくれ!」
「何とおっしゃられても困ります」
係の者に停められ、彼は仕方なくモニター室に駆け戻った。

ドレス姿の演奏者は、既にピアノに向かっていた。
「誰なんだ、あれは……」
軽い武者震いを覚えた。自慢の耳を持つ彼、藤倉利一は、その演奏者にただならぬ才能を感じたのだ。一音も聴き漏らすまいとモニターに寄った。が、まさに演奏が始まろうとした瞬間、唐突に画像が切れた。
「何だ?」
「どうなってるんだ!」
人々が騒ぎ立てる。
「しっ!」
藤倉は思わず言った。スピーカーからノイズが消え、いきなり演奏が始まった。映像は途切れたままだったがあまりに澄んだその音色に、会場が水を打ったように静まり返った。

リストの超絶技巧練習曲より、『ラ・カンパネルラ』。
(バランスがいい。これほどスピードに乗りながら、一つ一つの音がしっかりと心に響く。まさしくパリの街中に響く鐘のごとく……)
藤倉はその心地良い鐘の音に酔った。
そして、展開部の見事なカデンツァに、皆が惜しみない拍手と賛辞を送った。

続いての曲は、ショパンの『英雄ポロネーズ』。
(繊細だが力強い音だ。そして、リズミカルで歯切れがいい。小さな躊躇いを感じさせながらも堂々としている。これこそがまさしく『英雄ポロネーズ』の王道だ。しかし、これほど正確にこの曲を弾ける人間がいたなんて……)

ホールに残っていた少数の人々からも絶賛の声が上がった。コンクールでは禁じられている拍手や歓声がロビーまで聞こえる。

「いったい誰なの? こんな演奏をする人、これまで見たことがない……」
彩香もスピーカーから流れて来る演奏に耳を澄まして聴き入った。
「弾いているのは誰?」
彩香が訊いた。
「わからない。でも、さっきちらっとモニターに映ったのは背の高い美人だったよ」
近くにいた記者が答える。
「女性? なのにこの迫力……。すごいわ」
彩香もその実力を認めない訳にはいかなかった。
演奏が終わっても、人々は興奮し、藤倉は映像のない画面を見つめたきり、そこから動けずにいた。そこへ、再びアナウンスが入った。

「続いて、ナンバー18番の演奏を行います」
「何だって? まだいたのか」
藤倉は驚愕したように叫んだ。しかし、今から全力でホールの扉を目指しても、やはり中に入れてはもらえないだろう。
「くそっ! いったいどうなっているんだ、今年は……」
主催者の不手際にしては最悪だ。あとでこっぴどく叩いてやるぞ、と彼は決意した。
しかし、18番の演奏が始まると、そんな思いはたちまち何処かに吹き飛んでしまった。

スピーカーから流れる音……。
「……何だ?」
藤倉はふと自分の足元を見た。小さなつむじ風が舞っている。そんな感覚を覚えたからだ。
曲はベートーヴェンのソナタ、『テンペスト』。
コンクールでは比較的良く好まれる曲だ。
(ピアニシモの繊細な響き。そして、そこから生まれる力強い意識。まるで何もかもを破壊してやろうとする悪意と、野に咲く花を守ろうとする清らかな風。その二つが同時に混在し、鬩ぎ合っているような激しい打鍵……)
彼は耳の内に、自らの鼓動の高鳴りを感じた。
(ああ、狂おしいまでに洗練されたテクニックが、嵐の臨場感を盛り上げる。難易度的には難しくないこの曲が、リストの超絶技巧練習曲にも劣らぬ聴き応えだ)

そして次の曲は……『英雄ポロネーズ』
17番と同じ曲だ。
(これは……!)
藤倉は脳幹から脊髄に掛けて強い衝撃を感じた。
(正確な打鍵と完璧なリズム。テクニックは互角。が、何かが違う。この17番と18番、二人の演奏者は、これまでの出場者とはあまりにもレベルが掛け離れている。プロなのか? それとも……)
しかし、それ以上、何も思考が回らなかった。耳の奥に鳴り続けるピアノ。その心地良さに全身が弛緩しそうになった。自分は今、音に抱かれている。そう感じた。閉じた瞼の裏にその人物の影が浮かぶ。
(そうだ。これはショパンそのものなんだ。18番は、それを再現できるピアニスト……)
見えないモニターの向こうに、彼は畏怖を感じた。
(生きているんだ。音が生きて、ここに再現しようとしているんだ。命を……)

そして、演奏が終わっても、誰も何も言わなかった。17番の演奏とは対照的に、静かな余韻を残した。

「ああ、ハンス先生……いや、違う。あなたは……」
黒木はシートに座ったまま動けずにいた。舞台の上には美しい黒髪を結った美姫。指先から毀れ落ちるのは真珠……。
その艶やかな音色が床を転がり、空中を舞って英雄を作り上げた。昔の夢をここに再現して見せたのだ。黒木はずっとその場に居続けたいと思った。純粋に音楽だけを愛する者でありたいと……。しかし、それはゆるされないことだった。

「これで、すべての演奏が終了しました」
アナウンスが入った。気づくと、もう舞台の上には誰もいない。
「やはりこれは幻だったのか……」
黒木が呟く。
「いいえ、幻なんかじゃありませんわ」
すぐ隣から声がした美樹である。それは、どこかハンスの面影に似ていると、黒木は思った。

「あれって、ハンス先生なんですか?」
すぐ後ろの席にいた井倉が訊いた。
「井倉、おまえ、いつの間に?」
黒木が訊いた。
「実は、妹の澄子がコンクールの様子を見たいと言って、13番の演奏が終わった時、ホールの中へ入ったんです。僕はあまり気が進まなかったんですけど、どうしてもとせがむものですから……それで」
「いいものを見たな」
黒木が言った。
「はい」
井倉が頷く。

「それにしても、17番と18番の演奏はあまりにすごい。僕にはとても勝ち目がありません。それがたとえ彩香さんだったとしても難しいと思う。それくらいの差を感じました」
「ああ。おまえの耳は確かだよ」
教授はそう言って立ち上がった。
「どうやら結果は出たようだ」
黒木はすっと目を細めてホールの高い天井に灯されたライトを見た。


結果の発表は更に30分伸びた。しかし、人々は時間の長さを感じずにそこにいた。ホールに残り、17番と18番の演奏を聴くことのできた少数の人々は言葉少なに頷いたり、目を潤ませたりしていつまでも感動の余韻に浸っていたし、モニターを通して彼らの演奏を聴いた多くの人々の胸にも、いろいろな思いが交錯した。

「お兄ちゃん、ピアノってほんとにすごいんだね。わたし、感動しちゃった」
ロビーに出た澄子の目にも涙が光っていた。
「澄子……」
「お兄ちゃん、きっとピアニストになってね」
そう言う妹の肩を抱いて、井倉は強く頷いて見せた。

「井倉君、そろそろ発表の時間ですよ。中へ入りましょうか」
いつの間にかハンスが来て言った。もう衣装を着替え、いつもの彼になっている。
「先生……」
井倉は言いたいことがたくさんあった。が、熱い感情だけが込み上げて言葉にならない。皆に促されて、そのままホールの中へ入って行った。

ホールの中はごった返していた。受賞者の写真を撮ろうと報道陣がカメラを構えて待機している。最前列近くには彩香やフリードリッヒもいた。今日の彩香はまた一段と美しく輝いて見えた。
(彩香さん……。僕は今、君と同じ空間にいる。同じ空気を吸い、同じ時間を共有している。それだけで僕は幸せです。たとえ、いい結果が出なかったとしても……)
だが、彼の両隣に座る黒木とハンス。もしも、結果が出せなければ彼らに多大な迷惑を掛けてしまう。それだけが彼にとっての唯一の気がかりだった。

「ほら、あなた、優介の隣にいる方がピアノの先生ですって……。早く挨拶しないと……」
井倉の母親が夫を突く。
「ああ、そうだな」
父親が席を立って彼らの方へ近づいた。
「あの、黒木教授でいらっしゃいますね? 息子の優介がお世話になっております」
井倉の父が頭を下げる。
「いえ、彼はよく頑張っていますよ」
黒木が返す。
「ああ、ハンス先生、こちら井倉君のご両親だそうです」
そう言うと黒木が席を立った。

「ああ、バウアー先生、息子が大変ご厄介になりまして……本当に……」
「厄介なのはあなた方の方ですよ」
ハンスがぴしゃりと言った。背後で美樹が彼を突いたが無視した。
「本当に申し訳ありません」
両親は深く頭を下げた。が、ハンスは更に続けた。
「もう少しで大切な才能が消えるところだったんです。この子の命はあなた方だけのものではありません。よーく反省してくださいね」
「ハンス先生……」
井倉がおどおどとその顔を見る。
「本当にすみません。もう二度とこの子に辛い思いなどさせないように致しますので、どうかお許しください」
父親が謝罪した。

「井倉君、どうしますか?」
「僕は……心の中ではもう、とっくに許していたんです。家族ですから……」
「そうですか。井倉君がそう言うなら、僕も許しましょう」
ハンスが言った。
「でも、井倉君はもう今日からみんなのものになりますよ。本当は僕のものだけにしておこうと思っていたんですけど、みんなも彼の才能が欲しいそうですから……」
そう言ってハンスはにっと笑って舞台を見た。

審査の結果が出た。大会主催者の長い挨拶が始まり、皆もそれぞれの席に着いた。
「では、コンクールの結果を発表致します。呼ばれた方は舞台の上まで来てください」
仰々しく捧げられた巻き紙を広げ、司会者がそのナンバーを読み上げる。

「優勝は……エントリーナンバー18番」
会場から歓声と拍手が巻き起こった。
「ハンス……」
美樹がその横顔を見つめる。と、ハンスは当然だという顔をして澄ましていた。
「そして、第2位は……エントリーナンバー17番」
会場は再び拍手と喝采、そして、どよめきに包まれて騒然となった。
「……第3位はエントリーナンバー1番……」
しかし、その声は大勢の観客達の声によってかき消された。

「ねえ、お兄ちゃん、今、第3位は1番って言わなかった?」
澄子が兄の背中を突く。
「ねえ、お兄ちゃんでしょ? 1番って……」
「あ、ああ……」
井倉は呆然としていた。
(確かに1番と聞こえたような気がする。でも……)
会場がやけに騒がしい。何かを怒鳴り、抗議している者もいた。

「今呼ばれたナンバーの方はどうぞ舞台へ……」
司会者の声が聞こえないほど、騒ぎは大きくなっていた。そこにいきなり舞台の上へ飛び乗った者がいた。すらりとした金髪の青年、フリードリッヒだ。
「意義有り! その審査には納得がいかない。何故、この私が奴より劣っていると言うんだ! 根拠を示せ!」
「そ、そう言われましても……いったいあなたは……」

「私が17番だ」
会場から歓声と拍手、そして怒号が跳んだ。
「フリードリッヒ・バウメン?」
「あのショパンコンクールで優勝した」
「何だ。道理でレベルが違うと思ったよ」
「でも、どうして女装なんか……」

「それじゃあ、18番は?」
「フリードリッヒをやぶって優勝した彼女は?」
人々の間から喝采と罵声が飛び交った。
「18番を出せ!」
「彼女はいったい何者なんだ」

それに激怒してフリードリッヒも司会者を怒鳴る。
「今すぐ聴衆を黙らせろ! そして、私が納得いくように説明するんだ。何故、彼の方が上なんだ。審査の採点表を見せろ」
「そ、それは……」
司会者は困って沈黙した。
「いったいどういうことなんだ」
「滅茶苦茶だ。こんなのはもはやコンクールじゃないぞ」

「いや、それよりもう一度あの18番の演奏を聴かせろ!」
皆が勝手なことを喚き散らした。客席からはプログラムやアンケート用紙の紙、ボールペンなどが投げつけられ、舞台の上は大混乱になった。
「少々お待ちください」
司会者は逃げるように袖へ引っ込み、フリードリッヒもそれを追って舞台を降りた。

(いったいどうなってしまうんだろう)
井倉は呆然とそれを見守っていた。皆が舞台へ爪掛けていた。そんな中、一人、彩香だけがホールから出ようとしていた。
「彩香さん!」
井倉は彼女を追った。
「彩香さん、待ってくれ!」
彼女の腕を掴んで止める。
「もういいわ」
彼女は井倉の手を振り払って言った。

「どうして出て行ってしまうんだ? まだ結果はわからないだろう?」
「ええ。でも、優勝は18番。5番ではないわ」
井倉はじっと彼女の目を見つめて告げた。
「18番はハンス先生なんだ。そして、17番がバウメン先生なら、それは……」
「聞かなかったの? 第3位は1番と言ったのよ」

「僕にはよくわからなかった。だから……」
彩香は大きな瞳を瞬いて、じっと井倉を見据えた。
「このわたしに恥をかけと言うの?」
「彩香ちゃん……」
言葉に詰まる井倉。

「出て行っては駄目ですよ」
突然、背後から声が響いた。それはハンスだった。
「彩香さん、あなたは最後まで残って結果を確かめなければいけません」
「でも……そんなの意味ありません」
彩香は拒んだ。

「あなたは、僕があなたのレッスンを途中で投げて、見捨てられたと思っているのかもしれませんが、あなたの技巧は完璧で、今の僕にはもう教えることがないのです。あとは自分で学習し、獲得して行くことしか……。それにはまず自分の実力を知る必要があるんです。たとえそれがどんなに辛い結果だとしてもね。そうしなければ、きっと後悔するでしょう。先へ進むためにも、今はここに残るべきです」
「わかりました。先生……」
彩香は微かに頷くと再びホールへ続く扉を開けた。


一方、審査員室まで押し掛けて行ったフリードリッヒは、その審査表を目にしていた。彼の点は満点だった。だが、18番のハンスの点もまた同じ満点だったのだ。
「何故なんです? 二人共、同じ満点なのに、どうして彼の方が上なんだ!」
フリードリッヒが叫ぶ。
「それは……」
年配の審査員がおずおずと言った。
「涙一粒の差……ですかな」
「涙一粒ですって?」

「18番の演奏には作曲者の霊が……その想いが見えたのです」
「オカルトですか?」
フリードリッヒが眉を寄せる。
「いや、何と言いますかこれは……」
老ピアニストは説明に窮したが、フリードリッヒの表情は和らいでいた。彼はその審査員の顔を知っていたからだ。それはかつて、国際コンクールの審査員を歴任したこともある大御所のピアニストだった。

「私はオカルトは信じない。しかし、一つお聞かせください。私と彼の技術の差はなかったと思ってよろしいのですね?」
ピアニストは頷いた。
「それを聞いて安心しました。理事長さん、そういうことです。納得いただけましたか?」
「ええ。それはもちろんです。バウメン先生」
理事長が返事した。
「私は決して負けた訳ではない。評価は満点。技巧に措いては彼に優るとも劣らない完璧な成績だった。それはここにいる審査員の皆さんが認めた。そうですね?」
全員が頷いたのを見て、フリードリッヒは満足した。
「それなら結構。私は涙一粒分の差で、彼に優勝の座を譲りましょう」


それから10分後、舞台では改めて審査結果の発表が行われた。
「優勝はエントリーナンバー1番。第2位は、5番。そして、第3位は14番。呼ばれた方は舞台までお上がりください。尚、エントリナンバー17番、及び18番につきましては、規定以外の者による演奏だったということが発覚したため、共に失格と致します」
それを聞いた観客席からは大きくどよめきが上がった。

「井倉君」
美樹がそっとその肩を押す。
「はい」
彼は堂々と舞台へ上がり、きらめく照明の下で彩香の隣に立った。そして、表彰状を受け取ると笑顔を向けた。

「おめでとう、井倉。でも、どうか覚えていて。次にはきっと、あなたを負かしてみせる」
そう言うと彩香は会場をあとにした。
「彩香さん……」
井倉はそのあとを追って行きたかった。が、たちまちロビーに集まっていた報道陣のカメラに取り囲まれた。

「井倉さん、優勝おめでとうございます」
「これで無事に音大への復帰が決まった訳ですが、一言感想をお聞かせください」
急にマイクを向けられておどおどした。脇には黒木やあの理事長も控えている。井倉は軽く目を閉じ、呼吸を整えて言った。

「ありがとうございます。これも皆、僕を励まし、厳しいレッスンを続けてくださった、黒木教授やハンス・ディック・バウアー先生、そして、くじけそうになった僕を支えてくださった眉村美樹さんのおかげです。この三人の方々にはどれほど感謝しても足りないくらいです。本当にありがとうございました」
彼は深々と頭を下げた。
「それで、音大の方へはいつから戻られるんですか? やはり夏休み明けからでしょうか?」
最前列にいた記者が訊く。それに対し、井倉は正面を向いてきっぱりと言った。
「いいえ。僕はもう音大へは戻りません」